今、『父という病・父親を愛せない人たち』(岡田尊司 著)という本を読んでいます。その中に、なるほどと思わされた考え方がありました。父親というのは、子供にとって「こうなりたい」と憧れる理想像であると同時に、いつか否定し、乗り越えていかなければならない存在でもある、というものです。
父親のようになりたいと思う部分と、ああはなりたくないと思う部分。父親とは、そんな矛盾を抱えた存在なのかもしれません。
僕自身の父を振り返ってみても、まさにそうでした。今回は、その両面について書いてみたいと思います。
見習いたい父
近所の悪ガキが、僕が揚げていた凧に石を投げつけ、穴を開けたことがありました。そのとき父は「そいつは誰だ!」と言って、僕と一緒に、その悪ガキを探しに行ってくれました。子供を守ってくれる、優しくて、頼もしい父でした。
また、父は毎朝4時か4時半には起きて、市場へ車を走らせ、食堂で使う食材を仕入れていました。人知れず、家族のために体を張って働き続けていた父。その姿は、今も僕の中に「見習いたい父ちゃん」として残っています。
真似したくない父
一方で、激しく怒る父でもありました。
小さい頃、僕の家での仕事は、米をとぎ、炊飯器のスイッチを入れ、食堂に出すご飯を炊くことでした。あるとき、僕はその仕事を忘れてしまい、慌てて米を洗って、すぐに炊飯器のスイッチを入れました。炊き上がったのは、芯の残ったご飯でした。食堂のお客さんには出せません。父は怒って、その炊きたてのご飯を僕に投げつけました。
確かに、自分の役目を果たさなかったのは僕の落ち度でした。けれど今振り返ると、あれはちょっとやり過ぎだったと思います。後になって、父自身も「君には一度、強く叱ったことがあったな」と、少し反省するように話していたのを覚えています。
こうした、感情に任せた叱り方は、受け継ぎたくない部分です。以前の記事にも書いたように、僕は気づかないうちに、この怒り方を自分の子供に繰り返していました。だからこそ今は、意識して手放していきたいと思っています。
良い父か、悪い父か、決めなくていい
こうして振り返ってみると、家族のために懸命に働き、子供のために悪ガキを探しに行ってくれる父と、感情のおもむくままに叱りつける父が、一人の人間の中に、同時に存在していました。
『父という病』を読みながら感じたのは、これは特別なことではなく、父親という役割そのものが、もともとそうした矛盾を抱えているのかもしれない、ということです。
そうだとすれば、大切なのは、父親を「良い父」か「悪い父」かのどちらかに決めつけることではありません。見習いたい部分と、受け継ぎたくない部分を、一つずつ選び分けていくことです。
両面から、父を振り返ってみる
父親との関係を文章に書くと、自分の父親を、この両面から振り返ることができます。見習いたいと思える部分と、自分の代では手放したいと思える部分が見えてきて、父親という存在を、より立体的に理解できるようになります。
まずは、紙の真ん中に線を一本引いて、左に「見習いたいところ」、右に「真似したくないところ」を、一つずつ書いてみてください。18の質問の中にも、8番「体を張って守ってくれた記憶」や、7番「今振り返って、やり過ぎだったと思うこと」を振り返る問いがあります。両方の問いに答えていくことで、あなたなりの、父親との向き合い方が見えてきます。
一人で書くと、どちらかに偏りやすい
ただ、この両面を一人で書こうとすると、どちらかに偏ってしまいがちです。つらい記憶が強い人は、良い面を書こうとすると「あれを許さなければいけないのか」と手が止まります。反対に、父を慕っている人は、嫌だったことを書くと、悪口を言っているような後ろめたさを感じます。
どちらの気持ちも、そのままで構いません。良い面を認めることと、嫌だったことを嫌だったと言うことは、両立します。
一人で書き進めるのが難しいと感じたら、お電話で一緒にお話ししながら、両方の父を、そのまま言葉にしていきましょう。どちらかに決めつけず、あなたのペースで整理するお手伝いをします。
「父の良いところも嫌なところも、整理してみたい」——そのひと言だけで構いません。ココナラのメッセージから、気軽に声をかけてください。
すぐに相談するつもりはなくても、気になった方は、ココナラでサービスを「お気に入り」に登録しておいてください。登録してくださった方には、電話相談で使えるクーポンをお届けすることがあります。


コメント